「教科書が読めない」の、さらに手前
2018年、新井紀子氏の『AI vs. 教科書が読めない子どもたち』が世に出たとき、多くの人が衝撃を受けた。リーディングスキルテストが明らかにしたのは、中高生の相当数が、教科書に書かれた短い文の意味すら正確に取れていないという事実だった。AIに代替されない能力として読解力が語られる一方で、その読解力の土台が想像以上に脆いことが可視化された。
あれから数年。塾という現場で日々子どもと向き合っていると、事態はもう一段階、手前に進んでいると感じる。
教科書が読めない、どころではない。ゲームすらできない子どもが、珍しくない。
スマブラの基本操作が定着しない。逆転裁判をクリアできない。ピクミンのミッションが時間内に終わらない。かつて「勉強の敵」「子どもをダメにするもの」として親から目の敵にされてきたゲームが、今や多くの子どもにとって難しすぎるのである。
この逆転現象は、ただの笑い話ではない。ここには、学習困難の根っこに関わる構造が露出している。
「ドパガキ」という言葉について
タイトルに使った「ドパガキ」は「ドーパミン中毒のガキ」の略で、ショート動画やゲームなど刺激の強いコンテンツに慣れた結果、常に強い刺激を求め、集中力が続かなくなった若年層を指すネットスラングだ。2024年末、ある楽曲について「集中力のないZ世代が再生を止めないよう一定間隔でメロディを変えている、そういう相手の商売は大変だ」という趣旨のX投稿から広まった。
押さえておきたい点が二つある。
一つは、医学用語でも診断名でもないこと。俗語である。ここを混同すると議論が濁る。
もう一つは、主な使われ方が他者への攻撃ではなく自虐だということ。「気づいたら3時間ショート動画を見ていた、完全にドパガキ」といった自分へのツッコミが大半で、若者を冷笑する側も無限スクロールをしている以上、「ドパおじ」というブーメランが返ってくる。そもそも発端の投稿からして、子どもの資質ではなく供給側の設計への言及だった。
本稿でもその含意を引き継ぐ。指すのは、即時報酬に最適化された神経系を持つに至った子どもという観察上のカテゴリだ。短い間隔で、確実に、努力なしで報酬が返る環境に長時間さらされれば、報酬予測のシステムはそこに合わせて調整される。異常でも病理でもなく、適応として正常な反応である。問題は、その適応先が、学習という活動の要求条件とほぼ真逆だという点にある。
学習は報酬までの距離が遠い。努力しても失敗する。フィードバックは遅れて返る。即時報酬に最適化された神経系にとって、著しく分の悪い勝負だ。
つまり「ドパガキ」とは、子どもの怠慢を指す言葉ではない。大人が設計した環境の帰結を指す言葉として使う。
退行の階層 ―― 読解の手前に何があるか
「教科書が読めない」という問題を最上位に置くと、その下にどんな層が積み上がっているかが見えてくる。
- 教科書が読めない ― 新井紀子が可視化した層
- 漫画が読めない ― コマ割り・時系列・行間の補完
- アニメが見れない ― 展開を追い続ける受動的注意の持続
- ゲームができない ― 能動的操作・失敗・再挑戦
- 片足立ちができない ― 姿勢制御・体幹・身体の随意コントロール
※上から順に「より高度な層」。下にいくほど土台。
「読む」は認知的にかなり高度な部類の作業だ。文字を音に変換し、意味を保持し、文と文の関係を構築し、書かれていないことを推論する。この作業が成立するには、その手前にいくつもの土台がある。
漫画は、教科書より易しいとされる。だが実際には、コマとコマの間で省略された時間を読者が自力で補い、視線を正しい順序で走らせ、絵とセリフを統合する必要がある。これができない子は実在する。
アニメはさらに手前だ。受動的に見ているだけに思えるが、20分間、展開を追い続けて座っていられること自体が、持続的注意の訓練になっている。途中でスマホに手が伸びる子は、この層で止まっている。
そしてゲームは、しばしば誤解されているが、アニメより認知的負荷が高い。能動的に操作し、失敗し、原因を分析し、やり直す。逆転裁判は長文テキストを読み、矛盾を探し、論理を組み立てる持久力を要求する。ピクミンは複数の目標を並行管理し、限られた時間を配分する実行機能を要求する。スマブラは相手の動きに反応し、先を読み、指の運動を精密に制御することを要求する。
「ゲームができない」というのは、これらすべてに耐えられないということだ。そしてその手前には、そもそも身体をコントロールできないという層がある。
順番が壊れている ―― いきなりラスボスと戦っている
かつて、子どもの娯楽には自然な段階があった。
絵本があり、アニメがあり、漫画があり、ゲームがあり、小説があった。それぞれ要求される認知的負荷が違い、子どもは知らないうちに階段を登っていた。ゲームにしても、単純なアクションから始まり、RPGを経て、複雑なシミュレーションへと進んでいく道筋があった。
今の子どもは、その中間項をすべて飛ばしている。
いきなりショート動画という「ラスボス」から始まる。
ショート動画は、娯楽としての完成度が極めて高い。パーソナライズされ、最初の1秒で判断でき、外れを引いても指一本で次に行ける。待つ必要も、覚える必要も、努力する必要もない。摩擦が限りなくゼロに近い。
これは、報酬設計として人類が到達した一つの頂点である。その頂点に、階段を一段も登らないまま立たされたら何が起きるか。答えは単純で、それより下のすべてが「退屈」になる。
ゲームが難しく感じられるのは、子どもの能力が落ちたからというより、比較対象が変わったからだ。ショート動画を基準にすれば、ゲームは面倒くさく、報酬が遠く、失敗のリスクがある「割に合わない娯楽」でしかない。
ゲーム規制論はもう成立しない
ここで、従来の教育言説を一つ葬っておきたい。
「ゲームは1日1時間まで」「ゲームは学力を下げる」といった議論は、長らく教育現場と家庭の常識だった。だが今、この議論は前提から崩れている。
ショート動画は、規制の対象になり得ない。YouTubeに標準搭載されている。LINEにもついている。Instagramにも、TikTokにも、ブラウザを開けばどこにでもある。もはや「子どもに与えるかどうか」を親が選択できる商品ではなく、生活インフラの一部として埋め込まれている。学校の連絡がLINEで回ってくる時代に、LINEを取り上げることは現実的ではない。
その状況で、ゲームだけを規制するとどうなるか。
- ゲーム:クリアできない、詰まる、覚える必要がある、他人と協力する必要がある ―― 摩擦のある娯楽
- ショート動画:摩擦ゼロ、無限供給、規制不可能 ―― 摩擦のない娯楽
摩擦のある方を取り上げて、摩擦のない方を野放しにする。処方箋として、これは完全に逆である。
ゲームを敵視していた時代は、子どもの生活の中にまだ「摩擦のある娯楽」が主流として存在していた。だから摩擦の少ない方(ゲーム)を規制する意味があった。今は違う。ゲームは相対的に、子どもが自発的に触れる娯楽の中でもっとも負荷の高いものの一つになった。
規制すべき対象が変わったのに、規制の作法だけが更新されていない。
身体という、最も手前の層
もう一つ、認知だけを見ていると見落とすものがある。身体だ。
姿勢が保てない。座っていると机に上体が崩れていく。立たせると膝が内側に入る(内股)。片足立ちが数秒ももたない。ボールを投げる、縄跳びを跳ぶ、ハサミを使うといった協調運動がぎこちない。
こうした特徴が目立つ子は、発達性協調運動症(DCD)の可能性も含めて、専門的な評価が必要な場合がある。診断は医師の領域なので断定は避けるが、現場感覚として、この層に該当する子が増えている印象は否定しがたい。
そして重要なのは、これが「勉強とは別の問題」ではないことだ。
45分間、椅子に座って上体を保持し続けることには、地味だが確実に体幹の持久力が要る。姿勢維持に認知資源を割かれている子は、そのぶん内容の理解に回せる資源が減る。板書を写すには、視線を動かし、位置を記憶し、手を精密に動かす協調が要る。鉛筆を適切な筆圧で持ち続けるにも、手指の制御が要る。
勉強という活動は、静かに身体能力を前提としている。 その前提が崩れている子に、勉強のやり方だけを教えても届かない。
塾の仕事とは何なのか
ここまでの話を、塾という現場に引き寄せて考えたい。
本来、塾は教科書の読み方を教える場ですらない。
教科書が読める子に対して、教科書より先を、より深く伝授する場。それが塾の本来の役割だったはずだ。学校が標準を保証し、塾がその先を担う。この分業が成立していた時代には、塾に来る子は「読める」ことが暗黙の前提だった。
だが現実の仕事は、こうなっている。
- 片足立ちができるようにする
- ゲームができるようにする
- アニメが見れるようにする
- 漫画が読めるようにする
- 教科書が読めるようにする ― 新井紀子が指摘した層
- 勉強ができるようにする ― ここが「塾の仕事」だと思われている
下から積み上げないと、⑥には辿り着かない。
「勉強ができない」と言われて連れてこられる子の中には、勉強のやり方が悪いのではなく、勉強という活動が要求する前提条件をまだ満たしていない子がいる。座れない。持続的に注意を向けられない。失敗してもう一度やり直すことに耐えられない。文字の連なりから意味を立ち上げられない。
こういう子に、効率的な暗記法や過去問の解き方を教えても意味がない。というより、教えられない。スマブラで基本操作が定着しない子、逆転裁判の長文を読み切れない子、ピクミンで複数タスクを管理できない子に、勉強を教えられるはずがない。それらはすべて、勉強が要求する能力の、より易しいバージョンだからだ。
勉強ができないのではない。勉強も、できないのだ。
先にやらなければいけないことが、多すぎるほどある。
古臭い伝統が、意外と合理的である理由
では、どうするか。
ここで挙げたいのが、空手、柔道、囲碁、百人一首といった、いかにも古臭い選択肢である。
誤解のないように言っておくと、「昔の教育が正しかった」という懐古趣味を主張したいのではない。そうではなく、時代の条件が変わった結果、たまたまこれらが処方箋として機能する状況になったという話だ。
現代の教育設計は、「いかに子どものやる気を引き出すか」「いかに楽しく学ばせるか」を追求してきた。その結果、学習アプリにはバッジがつき、連続学習日数が表示され、正解するたびに音が鳴るようになった。ゲーミフィケーションと呼ばれるこれらの工夫は、善意から出ている。だが構造として見れば、即時報酬の設計そのものである。ドパガキ化した神経系に合わせて刺激を最適化することは、その状態をさらに強化する方向にも働きうる。
対して、伝統的な芸事は、報酬設計という概念が存在しなかった時代に完成している。子どもに合わせない。型は型のまま、定石は定石のまま、百首は百首のままだ。その「合わせなさ」が、今となっては必要な負荷そのものになっている。
| 主に鍛えられるもの | |
|---|---|
| 空手 | 型の反復による姿勢制御・体幹・左右の協調。正確な動作の記憶と再現 |
| 柔道 | 受け身による全身の協調運動と身体感覚。相手との間合いの読み合い |
| 囲碁 | 定石の暗記と応用。数十手先を読む作業記憶。長時間の持続的注意 |
| 百人一首 | 大量の暗記と瞬時の想起。「待つ」姿勢と「動く」瞬間の切り替え |
そして、これらすべてに共通して組み込まれているのが礼儀作法である。
正座する。一礼する。「お願いします」と言う。この手順を踏まないと本題に入れない。道徳教育としてしばしば語られるこの部分は、認知的に見れば別の意味を持っている。欲求と充足の間に、強制的に間を挟む装置である。
ショート動画は、指を動かした瞬間に次の刺激が来る。欲求と充足の間隔がゼロだ。伝統的な芸事は、その間に型を挟む。この構造の差は、決して小さくない。礼儀作法は、衝動制御の反復訓練として機能している。
古臭いから良いのではない。報酬設計が入り込む余地がなかったから、結果的に純度が保たれたのだ。
おわりに
新井紀子氏が可視化した「教科書が読めない子どもたち」は、氷山の一角だった。
その下には、漫画が読めない層があり、アニメを見続けられない層があり、ゲームができない層があり、片足で立てない層がある。読解力という上澄みだけを見ていると、その下で土台が組み上がっていないことに気づけない。
そしてこの状況を作ったのは、子どもではない。摩擦のある娯楽を規制し、摩擦のない娯楽を生活インフラに組み込み、教育すら即時報酬の方向に最適化してきた大人の側だ。「ドパガキ」という言葉が指しているのは、子どもの資質ではなく、大人が設計した環境の帰結である。
AIに仕事を奪われるかどうかを心配する前に、片足立ちができるようにする。順序としては、そういうことになる。
