カテゴリー
Uncategorized

古文が読めないのは単語不足ではない ― 読解力と「実効文脈射程」

古文が読めないのは、単語が足りないからだけではない。前の情報をどこまで今の理解に使えるか——「実効文脈射程」という視点から読解力を分解し、古文漢文の多読が共通テストに効く理由を考える。

勉強が苦手な生徒を見ていると、「知識が足りない」だけでは説明できないことが多い。公式は知っている。単語も覚えている。問題集もやっている。それでも共通テストのように文章が長くなり、条件が増え、図表が入ってくると急に解けなくなる。

この差は何なのか。私は最近、読解のかなりの部分は予測の精度の問題であり、その精度を決めているのは「実効文脈射程」とでも呼ぶべきものではないかと考えている。

読解は、解読しながら予測している

文章を読むとき、人は解読だけをしているわけではない。解読しながら、同時に次を予測している。

「しかし」とあれば逆の内容が来ると予測する。物語なら「この人物は怒っているから、次に何かするだろう」と予測する。古文なら敬語や人物関係から次の主語を予測する。実際に起きているのは、予測して、読んで、照合して、外れていたら直す、というループである。

読解速度の差の一部は、この予測の精度の差として説明できるのではないか。予測が当たっていれば、入力のたびに理解の枠組みを大きく作り直さずに済む。外れれば、その都度組み直すことになる。

では、何が予測の精度を決めているのか。

どこまで手が届いているか

ここでAIの話が補助線になる。

大規模言語モデルには context window という概念がある。一度に入力できる文章の長さの上限である。ただし、入力できることと使えることは別で、長い文章を与えると真ん中あたりに置かれた情報の参照精度が落ちることが知られている。だから理論上の入力長とは区別して、effective context length ― 実際の推論でどこまで離れた情報を使えるか ― が問題にされる。

「実効文脈射程」という言葉は、ここから借りている。

人間の読解にも似たことが起きている。

文章の最初に「太郎は父親との約束を破った」とあり、数ページ後で太郎がある行動を取ったとする。読める人は数ページ前の情報を呼び戻して、「だからこの行動を取ったのか」と解釈する。読めない人は、今読んでいる数行だけで意味を取ろうとする。前の情報は消えているわけではないかもしれない。しかし現在の解釈に使えていない。

この、現在の理解に使える形で過去の情報を引き出せる範囲を、「実効文脈射程」と呼びたい。

覚えているだけでは足りない。必要なときに検索できなければならない。検索できても、今読んでいる情報と統合できなければならない。統合できても、実際の判断に使わなければ意味がない。だから「実効」には、

保持 + 検索 + 統合 + 利用

までを含めている。この四つのどこか一つが欠けた時点で、その情報は事実上そこに無いのと同じになる。

実効文脈射程が数行しかない人は、数行だけを材料に次を予測することになる。当たるはずがない。

そして距離として捉えると、一つ実用的な利点がある。教材がどれだけの射程を要求しているかを、こちらで設計できるようになる。

数学も理科も、実効文脈射程で解いている

これは国語だけの話ではない。

数学の長い問題文には、条件Aと条件Bと図と途中の結果Cが散らばっている。それを使える状態に保ったまま「次はこの定理が使えそうだ」と予測する。物理の状態変化も、化学の操作列も同じである。初期状態を保持したまま、次に何が起こるかを読む。実効文脈射程が問題文の長さに足りていなければ、そこで詰まる。

問題集の典型問題では、この負荷が低い。二次関数の章に二次関数の問題が並んでいれば、何を使うかは最初から教えてもらっている。だから基礎問題集では解けるのに共通テストで崩れる、という現象が起きる。

読めないことは、悪循環を作る

実効文脈射程が短いと、何が起きるか。

利用できる情報が少ない → 予測が外れる → 読むたびに理解を組み直す → 読解が遅く、苦痛になる → 読む量が減る → 射程が育たない

読めないから読まない、読まないから読めない。読書量の差が学力の差を広げていくことは以前から指摘されているが、その内側ではおそらく、こういうことが起きている。読書という行為そのものの負荷については、読書という「難易度S」の活動に書いた。

ただし重要なのは、この輪はどちら向きにも回るということである。

古文漢文は、実効文脈射程の最高の教材である

ここからが本題である。

古文が苦手な生徒は、単語が足りないだけではない。登場人物が三人出てきて、一人の名前が省略される。誰が誰に敬語を使っているかを考える。数行前の出来事を踏まえて今の感情を推測する。さらに次を読む。

一文ずつ現代語訳はできるのに、全体になると意味が分からなくなる。これは「古文が苦手」というより、実効文脈射程が短いのである。古文に入っていけない生徒への入り口については、漫画のすすめでも書いている。

裏を返せば、古文漢文は実効文脈射程を鍛える教材として、おそらく最も効率がいい。理由は三つある。

一つ、省略が異常に多い。主語が書かれない。目的語も書かれない。誰の発言かも書かれない。それを、敬語の種類、人物の身分関係、数行前の出来事から復元しなければならない。現代文なら書いてあることを、古文では全部自分で補う。射程を伸ばさないと一行も進めない。

二つ、常に予測を強制される。「たまふ」が出てきた瞬間に主語の候補が絞られる。漢文なら対句や句法が次に来る内容を予告する。文法が、そのまま予測の手がかりになっている。予測しながら読む以外の読み方が存在しない。

三つ、短い。現代文の評論一本を読む時間で、古文なら何本も読める。単位時間あたりの処理密度が圧倒的に高い。

そして決定的なのは、この訓練がそのまま共通テストの得点になることである。

読書は実効文脈射程を鍛える最良の方法だが、受験生には長編を読む時間がない。古文漢文なら、読解の訓練をしながら、同時に配点の大きい科目を仕上げられる。これほど二重取りができる教材は他にない。

そして多読を続けると、さっきの輪が逆に回りはじめる。

前の人物と出来事を参照しないと読めない → 射程に負荷がかかる → 文法と敬語から予測する → 外れたら直す → 処理が自動化する → より長い文脈を扱える

だから私は、古文漢文をとにかくたくさん読んでほしいと思っている。一問一答でも、文法問題集でもなく、まとまった文章を通しで、大量に。

一つだけ条件がある

単語と文法が最低限は入っていることである。古文はこの点で外国語に近く、解読に処理資源を取られている間は、内容を組み立てる余力が残らない。多読が効くのは、解読のコストが下がった後である。

実効文脈射程を鍛えるつもりが、単語調べで終わってしまう。そこが怪しい生徒には、同じ文章を繰り返し音読させて解読を自動化する工程を先に挟む。江戸期の漢籍素読と同じ発想である。声に出して覚えることが何をしているのかは、頭の中の声を育てるにも書いた。この話は長くなるので、別に書きたい。目指す先は変わらない。解読に手間取らない状態で、まとまった文章を大量に読むことである。

「読解力がない」を分解する

「この子は読解力がありません」という言葉はよく使われる。しかしそれだけでは何ができないのか分からない。語彙なのか、文法なのか、記憶なのか、因果関係なのか。「教科書が読めない」と言われる現象については、AI vs. ゲームもできないドパガキたちでも扱った。

その一部を、実効文脈射程と予測の精度という形で見てみたい。読んだとき、どこまで前の情報が今の理解に生きているのか。その情報を使って次を予測しているのか。この二つを見るだけでも、「読めない」という現象はかなり具体的に観察できるようになる。

人は、過去を保持しながら未来を予測している。その過去に手が届く距離を、私は「実効文脈射程」と呼んでみたい。

そしてその距離を伸ばす教材は、たぶん高校生の手元にもうある。

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。 が付いている欄は必須項目です

CAPTCHA