僕の幼少期にはマウンティングやマウントを取るという言葉はありませんでした。
厳密には格闘技などの用語で使われてはいたのですが、現在の主な意味としてのマウンティングという言葉はありませんでした。
現在の意味としてのマウンティングは、「自慢したり、相手を見下すことで、相手よりも優位に立つ。そのための行動や言動」というものです。
テレビやネットでよく聞くマウンティングの例は
「私タワマンの上の階に住んでいるの」
とかを誰かに言う事らしいです。
凡そ、経済力や美しさ、力、地位、能力を誇示する行為がマウンティングに当たるようです。
なぜ急にマウンティングの話なのか?
最近マウンティングをされたとか、したとかではありません。
実語教を読んでマンティングについてふと考えました。
実語教
これは平安時代から明治時代初期まで使われていた小学生の教科書です。仏教や儒教の教えを元にしています。
以前、小学生の速音読のために一部使用していたのですが、これを最近全文読んでみました。
雖積千両金 不如一日学
千両の金を積むといえども、一日の学にしかず。
たとえ、3億円貯めたとしても、一日の勉強にかなわない。
という一文が実語教の中にあります。
「勉強が一番大事だよ」という文なのですが、これと同じ意味の文が、何度も何度も出てきます。
とにかく最も価値のあることは勉強して知恵を身につけることだという話が、繰り返し出てきます。
色々説はありますが、江戸時代の識字率は50%程だったそうです。
そして、ほぼ全ての寺子屋で実語教という教科書を使っていたとすれば、この「勉強が一番大事だよ」という価値観を持っている人はとても多かったのではないでしょうか。
江戸時代のマウンティング
もし、「勉強が一番大事だよ」という価値観の人が多かったとしたら、江戸時代はどうやってマウントをとっていたのでしょう?
「おれ、めっちゃ勉強したぜ」
とか言っていたのでしょうか。
「論語読みの論語知らず」
ということわざがあります。
これは読んでいるだけで、意味を理解していない人を揶揄する言葉です。
字義だけ見ればそうなのですが、もしかしたら
「おれ、論語全部読んだぜ」
とか言って、マウントを取ってくる人が多くて、それに対して「お前は読んだだけで、何も分かってないだろ」と言い返すための言葉だった可能性もあるのでは無いでしょうか。
慶應大学に受かったときに福翁自伝が大学から送られてきたので、それを読みました。
ちなみに、わざわざ慶應大学に受かった話を書くのはマウンティングにあたります。
この本は福澤先生の自伝なのですが、その中に
「私は若い頃から四書五経の一つの春秋左氏に誰より詳しかった」
的な事が書いてあったと記憶しています。
読んだ当時は春秋左氏伝て本があるのか、くらいの感想しかありませんでしたが、「おれ、めっちゃ勉強したぜ」というまあまあマウンティングめいた文だったのかもしれません。
まあ、学問のすゝめ書くだけあって、勉強を重視していたの周知の事実なのですが。
オーストラリアにて
ワーキングホリデーでオーストラリアに行き、日本人の知り合いが何人かできました。
色々な価値観の人がいましたが、時給の高いオーストラリアで、とにかく金を稼ぎたいという考えの人が結構いました。
あまりにも金を稼ぎたいとずっと言っているので、「お金を稼いで、その後はどうするの?」と聞いてみました。
しかし、みな「とにかく金を稼ぎたいんだ」としか答えてくれませんでした。しかも、その問答以降あまり話をしてくれなくなりました。
これも、帰ってきてからそんな事もあったなと思い出しだだけで、当時は価値観についてそれ程考えていませんでした。
オーストラリアでは中国人やインド人、シク教徒、プロテスタント、カソリック、ヴィーガン、ユダヤ人、アングリカン、シーア派、スンニ派色んな人に会いました。今にして思うと、価値観についてもっと聞いておけば良かったなと思います。
現代日本
今の日本の価値観が間違っていて、明治以前の実語教の頃の価値観の方が正しかった。と言いたいわけではありません。
まあ、少し思ってはいますが。
で、欽ちゃんは仏教の大学に入りました。アズマックスも大学に入りました。ロンドンブーツの淳は大学院に行きました。
芸能人でお金を持ってから勉強する人がまあまあいます。
これって昔の価値観なんじゃないのかなと思います。
戦前の修身という科目があった頃は、この実語教の価値観がまだ少し残っていました。
その次と次の次の世代くらいまでは、爺ちゃん婆ちゃんの話を聞くことで昔の価値観の残り香を感じる事が出来たのだと思います。
さて我々の下の世代はどういう価値観を持って生きていくのでしょうか。どんなマウンティングを繰り広げるのでしょうか。
無宗教の国日本。と言いながらも実語教を読み、神道、仏教、儒教の影響を受けてきました。しかし、いよいよ本当の意味での無宗教の時代に足を踏み入れ始めている気がします。
僕自身は幼少期に実語教を読んではいませんが、学問のすゝめの福澤先生門下として「勉強が一番大事」という価値観は持っています。
現代の価値観のコンセンサスを一言で言うなら多様性です。価値観を一つに定めることは危険思想のようにさえ思われます。
しかし、その中でも「勉強が一番大事」という価値観を共有してくれる人が消えないでくれると嬉しいな、とか実語教を読みながら考えていました。